mj-lionの備忘録

暇な法律家による,読書・映画等についての覚書です。

芥川賞候補作 古市憲寿『百の夜は跳ねて』・感想  ~この世界の様々な境界線について

テレビで見ない日がない?くらいの古市さんの本。
前作に続いて芥川賞候補作となったという意味でも話題作。

古市さんの書く小説ってどうなるんだろう,という興味から手に取りました。
その結果,思いがけず素敵な小説に出会うことに。

***

主人公・翔太は、大学卒業後、ひょんなことからビルの窓の清掃員になった。

窓を清掃していると、窓の内側の生活がみえる。
翔太は、すこし卑屈っぽく内側の人々をみて過ごしている。

日々,今の生活に満足していると自分に言い聞かせて過ごしている。

ある日,とある高層マンションを清掃中,部屋からこちらを見てきた老婆が,「3706」と口紅で窓に示す。
これを部屋番号と考えた翔太は,その部屋を訪ねると,老婆から奇妙な依頼をされる…。


***ここからはネタバレ注意***


この本は,著者が古市さんということもあり,「社会格差」を描いた本と紹介されている。

まずは,その「社会格差」っぽい話を要約する。

はじめは,横の格差から。

窓の清掃という設定は,ほんのガラス一枚を隔てて,「内」・「外」を区別する。
しかも,「内」にいる人々のために清掃するのが「外」にいる翔太という構図になっており,「外」が「内」に従事する関係性になっている。

「内」の人は,「外」の人に興味を持たない。
それどころか,「外」に覗かれていていないという「内」の意識(=慣れ)によって,翔太の仕事は成り立っている。

逆に,同僚の中村くんは,「外」から「内」をみて,「この会社は◯◯なんですよね」なんてバカにしている。
翔太は,そこまでいかないものの,自分が下に見られていることを心のうちで強烈に意識して過ごしている。

次は,縦の格差の話。

高層マンション自体,上下に関係性がある。
高いお金を払うと上層に住める。
下層の人は,上層よりも,家賃が低い人だ。

以上が,「社会格差」のお話。
ここまでで既に,窓の清掃員という設定が,かなりの面白設定であることがわかる。


でも,私は,この本の描いた格差は,ありきたりな社会格差だけではないと思っている。

翔太は,老婆と出会う以前,ある同僚が仕事中に転落死するのに遭遇する。
それ以来,死者となったその同僚の声が,聞こえるようになる。
もちろん,実際に声が出ているわけではないけど,心のなかで,語り掛けてくるようになる。

そして,その同僚とのかつての会話として,「死んではいけない島」の話が出てくる。
※この島は,実在する島のようです。

翔太もまた,転落死の危険のある仕事に就いている。

こうした記述から理解されるのは,翔太が(無意識かもしれないが)「生」・「死」に頭を囚われているという事実だ。

そして,「生」・「死」は,先に述べたこの本の世界観,「社会格差」と無関係ではないだろう。
「生」・「死」は,大げさにいえば,乗り越え難い(と認識されている)絶対的な境界線である。

このように理解すると,この本には様々な境界線が張り巡らされていることがわかる。


さて,この本は,青春小説と先に述べた。
その定義を知るわけではないけれど,翔太が成長していく物語であると思っている。

翔太にきっかけを与えるのは,老婆である。
老婆は,翔太に対して,仕事で訪れるマンションの部屋のなかを写真に撮ってきてくれないかと頼む。
翔太は,これに応じ,写真を撮っては老婆を訪れ,代金を受け取るという暮らしを送る。

老婆は,「生」・「死」について,翔太と対極の考え方を持っている。
例えば,亡くなった人とも会話を楽しんでいる

「本当はあの人に真っ先に伝えたいという時に,この世界の中じゃ簡潔しなくなるのよ。でも決して会えないわけでも,話せなくなるわけでもない。それどころか電話や手紙がいらなくなるの。便利なことよ」(p90)

と述べる。また,老婆の世界観がわかる部分としては,

「よく,死んだらまた会えるなんて言う人がいるでしょ。私,違うと思うの。会えるかも知れないし,会えないかも知れない。この世界でも会えなかった人がたくさんいたように,死んでから会えるとは限らないでしょ。きっと,あちらのほうがこちらより広いでしょうから」(p92)

などがある。
どうやら老婆にとって,「生」・「死」の境界線はかなり曖昧であることがわかる。
特に後者の部分からは,この世界との連続性を意識していることがいえる。

次に,老婆は,社会格差の境界線も曖昧である。
老婆は,翔太が撮影した写真を,リビング中に並べた段ボールに貼り付ける。
ある種の「街」が出来上がる。

物語のクライマックスで翔太は,リビングに作られた「街」を,カーテンを開けて「外」の(現実の)「街」と連続させる。

翔太が,老婆的な,境界線が曖昧な世界観を少し手に入れるというのが,この小説の結論だと思う。

老婆が完璧超人として描かれていないことも念のため付しておきたい。
老婆もまた,自らの老いと対面するのを避けて,鏡を黒いガムテープで覆っていたりする。
でも,それがまた人間らしさを出している。

***

ぼくが一番好きなのは,ちょっとした考え方の変化によって,この世界が変わること。
それによって,生き易くなるとという点だ。

それがこの小説の骨子であると思っている。

ちょっとした考え方の変化をもたらすのは,日常の偶然だったりするのだ,というメッセージ。

これって,全く珍しいことではないと思う。
例えば,偶然流れてくる「おすすめ動画」で,なにかにハマったり。
興味もなかったことに,他人からオススメされてハマったり。
逆に,自分が好きだったものが,ちょっとしたことでなんとなく嫌になったり。

世界を生きていくというのは、そういうものだよね,と確認するような小説といえるかもしれない。
世界をつくるのは自分だ。


***


文学を評価する力は,ぼくにはないけれど,この本が話題になった理由の一つは,
参考文献一覧が最後についている点と,そこに一つの小説が挙げられている点らしい。

木村友祐「天空の絵描きたち」『文學界文藝春秋,2012年10月号,とある。

優れた小説家からすれば,これが邪道と映ったのかなというのは想像に難くない。
小説のモチーフを,他人の小説からゲットしました!と白状しているとみえる。

この点,小説の主題から少し考えてみたい。

盗作に該当するケースは論外だけれど,言論空間にある境界線に対する,古市さんの考え方の現れなのかなとか思う。
たぶんあえて記載する必要のなかった参考文献を,わざわざ書いていることからみて,これ自体にメッセージがあると考えるのが自然だ。

あえて記載すれば,確実に叩かれる。
でも,自ら叩かれることで,叩く人と叩かない人の境界線が,顕在化する。
それをどうみるか,試してくるようだ。


その意味で,この小説自体が,老婆的な存在なのかもしれない。