mj-lionの備忘録

暇な法律家による,読書・映画等についての覚書です。

ピアノに置かれたグラスの意味ーNo One But You(Only The Good Die Young)/Queen

No One But You(Only The Good Die Young)/Queen

フレディ亡きあと,1997年に,3人で発表した曲だ。

www.youtube.com

 

天国のフレディに向けて作られた曲であるが,多くのクイーンファンにより,ときおり個性的かつ情熱的に,歌詞が訳されている。

その訳も興味深いのだが,今回は,このPVにうつるグラスについて,書いてみる。

 

このPVは,メイキング映像が公開されている。

https://www.youtube.com/watch?v=oLKyaOLb2Fs

そこでは,このPVがどうして素朴な仕上がりになっているのかが明かされる。

言うまでもなく,他のクイーンのPVは,もっと刺激的だ。

 

ブライアンによれば,このPVは,「スタジオを訪れた人の視点」で撮影されている。

もちろん,3人が和やかに(しかしながら感情的に)奏でるスタジオを訪れるのは,フレディだ。

 

たしかに,PVは,天国からフレディがふらっと降りてきたかのようにはじまる。

そして,最後は,すっーと天国に戻っていくかのようにカメラが引かれる。

 

さて,フレディは,コンサートにおいて,ピアノにグラスを置いたりして,「乾杯!」と言っていたとか。

そう,このPVにみられるグラスは,フレディ用のシャンパンなのだ。

 

ただでさえ,泣かせる歌詞なのに,こうした演出も知ってしまうと,

余計に泣けてくる。

でも不思議と悲しくなり過ぎないのは,3人がいい顔をしているからかもしれない。

吉田裕『日本人の戦争観』と映画『この世界の片隅に』

歴史の説明をみていると,「その出来事って同時代的にはどう思われていたのかなぁ」なんて疑問が湧くことはないだろうか。

 

人々の時事に関する関心度は一様ではない。コロナウイルスに敏感な友人は大量のマスクを買ったというけど,そうでもない人はとりあえず静観している。

きっと,むかしもそうだったに違いないと思っている。メディアの数とか,アクセスできる情報量・媒体に差はあれども,何らかの出来事について「(国民に)〇〇と捉えられた」「気運が高まった」という言説は,即座には信用ならない(と思っている)。

 

吉田裕『日本人の戦争観 戦後史のなかの変容』(岩波現代文庫,2005)は,太平洋戦争に対する戦争観の変容について,時には数量的に,社会学的に,論証してくれる。同時代的な感覚を知りたいという欲望が少し満たされた。

 

そういえば,映画『この世界の片隅に』は,人々の同時代的な戦争観を示していると思う。

あえて,そういうセリフも仕組まれているから,制作時から意識されていると思う。例えば,「戦争は遠いところでやっている」旨の発言があったり。

しかし発言の一方で,少しずつ服装等に変化がみられていく・・・・・・。これはまた別の機会に整理したい。

『映画ドラえもん のび太の宝島』とハンス・ヨナスの未来倫理(2)

2 ハンス・ヨナスの未来倫理

 

 『宝島』のテーマの一つは,家族愛である。これは泣けるくらいよくできている。この時点で,映画ドラえもんとしては,すばらしい作品だと思う。

 

 もう一つのテーマは,未来倫理だ。今作はここが意味深い。 

 

 ハンス・ヨナスの『責任という原理』という本を,学部時代に読んだ。タイトルがかっこよくて,印象深い本だった。少し思い出してみる。

 

 問題の所在は,新しい環境問題に対して,既存の倫理学では太刀打ちできなそうであるというところにあった(こうした思考枠組みは,国際環境法においても同様)。

 例えば,ある工場から毒ガスが漏れてしまって近隣住民が大変な迷惑を被るという種類の公害ではなく,現時点では「直ちに」影響はないが,将来ではどうかわからないといった話がある。

 あるいは,A国での開発事業が,地球温暖化を進め,海面上昇を起こし,B国の浜がなくなっていくというようなグローバル規模での問題。これらに対する哲学的な対応である。

*アジア圏でも広がる環境裁判所による対応も興味深い。

 

 そこで,ヨナスは,未来に対する責任のシステム(倫理)を考えていく。そうして生まれたのが,「未来倫理」や「世代間倫理」と呼ばれる領域だ。これ以上のちゃんとした説明はできない(恥)。

 

***

 

 今作で,シルバーは,タイムトラベルの際に,未来の地球環境が破滅している姿をみてしまい,「子供たちを頼むわ」という亡き妻との約束を履行するために,あとがない地球を捨てて,子供たちのために地球を脱出するという方法を思いつく(=ノアの箱舟計画)。

 

 シルバーは,未来の子供たちに対する自己の倫理観の帰結として,多少の犠牲をいとわず,地球を捨てることを決意している。親として,人間として,彼なりの責任の原理がそこにある。ヴォルデモートのような完全悪ではない。

 

 ところが,シルバーには,(現時点での)子供であるのび太らの声が届かない。皮肉だ。未来は子供たちのものであるはずなのに。

 

 結論としては,「ノアの箱舟計画」は止められる。のび太らの叫びに,シルバーが我に返るような描写がある。

 

視聴者としては,この結論はわかっているはずだが,やはりほっとする。

 

 ***

 

現実の環境問題に対して,地球を脱出するという選択肢はとれない。だからこそ,真剣に,未来倫理/世代間倫理を考えていかねばならない。

 

 シルバーがどこまで間違っていたのかは,あまり単純ではない。人命を奪うレベルでの犠牲を出す「ノアの箱舟計画」は許されないだろうが,経済活動の規制であればどうか。

 

***

 

 そういえば,グレタ・トゥーンベリさん,昨年とても話題になったな。

 

 なんか映画と重なるところもあるかもしれないな,なんて思った一日でした。

『映画ドラえもん のび太の宝島』とハンス・ヨナスの未来倫理(1)

映画ドラえもん のび太の宝島』,とても面白い!

近年の映画ドラえもんシリーズのなかでも,かなり好きな方だ。

 

ドラえもんの映画では,まず①大枠としての定番のストーリーがある。

トラブルに見舞われたのび太たちが,登場人物等の力を借りつつ,危機を脱し,ハッピーエンドを迎える。その冒険譚のなかで,子供に向けて,友情や家族愛を呈示してくれる。

加えて,近時では,『緑の巨人伝』などのように,一見して明らかに②時事問題・社会問題を背景にした内容となることもある。

本作品についても,未来倫理に関わる論点がストーリーに絡んでくるのだが,まずは純粋に本作品の面白ポイントを紹介していきたい。

 

映画の要旨としては,「宝島」を探しに行くこととなったのび太たちだったが,道中で海賊様の集団に襲われ,しずかちゃんが人違いに遭い,同集団に連れ去れてしまうところからはじまる(上記①)。その後,物語は,未来の人類保護という裏テーマに対面することとなる(上記②)

 

(以下ネタバレを含みます。)

 

1 映画の感想など

(1)タイトルのひっかけ

 タイトルから中身が想像されにくいことはたまにあるが(『ひみつ道具博物館』,『大魔境』とか。),そもそも『宝島』が「島」ですらないとは思わなかった。なるほどそう来たか!となる。

 *本当の「宝物」って何だろうという問いが示される。

 

(2)ハーバー家のストーリーと「ノアの箱舟計画」

 多くの映画ドラえもんでは,(のび太と対になるような)登場人物が現れる。しかし,本作品ほどに,映画固有のキャラクターについて深いストーリーを持たせることは少なかったのではないかと思う。

 未来に住むシルバー・ハーバー及びフィオナ・ハーバー夫妻は,共に研究者で,フロック(兄)とセーラ(妹)の二人の子どもがいる。ところが,母フィオナは5年前に研究が多忙で亡くなってしまう。

 ※ちなみに,しずかちゃんは物語冒頭,セーラに間違われて海賊に誘拐される。 

 シルバーは,フィオナの言った「子供たちの未来を頼むわね」という遺言を胸にしていた。しかし,とあるタイムトラベルの際に,未来の地球が破滅した姿を見てしまう(核戦争を想起させるような衝撃の画である)。それを契機に,フィオナを失った悲しみに囚われているシルバーは,人が変わり,「ノアの箱舟計画」を企てる。

その内容は,(ドラえもんらのいる)現在の地球の生態エネルギーを大西洋の海嶺から吸収し,それをエネルギー源として,「宝島」たる巨大な(海賊)船に人々を住まわせたまま,地球を脱出し,新しい星のもとで暮らそうというものだった。

同計画が実施されれば,エネルギーを失う現在の地球には尋常ならざる影響が及ぶ(シルバーは,その影響は「限定的」と述べる)。しかし,「子供たちの未来」を守るためには,ひいては人類が滅亡しないためには,「ノアの箱舟計画」以外に道はないと決断する。

 こうしてノアの箱舟計画」vs.ドラえもんたちへと展開する。

 ところで,フロック&セーラ兄妹のシルバーに対する態度は異なる。

 フロックは,変わりゆく父の姿に敵対心を覚え,「宝島」を脱出し,たまたましずかちゃんと入れ替わりに,のび太らと合流する。

 他方,セーラは,そんな兄の心のうちを理解しながらも,自身は「宝島」内のパン屋に残る。

 なんと緻密に仕組まれた家族像!と思ってしまう。

 

(3)のび太とシルバーのやりとり

  最終局面において,のび太ドラえもん,そしてフロック&セーラ兄妹(と救出されたしずかちゃん)は,シルバーを止めようと試みる。しかし,シルバーは「子供らにはわからないだろうが…」といいつつ,「(未来の)子供たちを守る」「(未来の)人類のためには多少の犠牲が必要である」として,聞く耳を持たない。

 この映画の一番のシーンがここで訪れる。のび太が叫ぶ。 

大人は絶対に間違えないの?僕たちが大事にしたいと思うことは,そんなに間違っているの? 

  しかし,この問い掛けすら無視したシルバーは,いよいよ地球からエネルギーを吸い取り始める。ここで,止めに入ったドラえもんが,球体化したエネルギー自体に巻き込まれてしまうが,のび太が命がけでドラえもんを救出する。

 シルバーがのび太に問う。「どうしてそこまでできるんだ……。」 

(シルバーとフロックが)親子で争うなんて,僕だったら悲しいから

  のび太の答えに,シルバーは「僕だったら……」とつぶやき,妻フィオナの病床でのシーンを想起する。フィオナは,隣で眠る幼子2人を横目に,こうつぶやいていた。 

2人には,他人の幸せを願い,他人の苦しみを悲しめる人になってほしい 

  フィオナの(おそらく)最期の言葉を思い出したシルバーは,「他人の苦しみを悲し」んでいるのび太の言葉に目を覚ましていく。

 

 

本当はここから裏テーマたる未来倫理へ行きたいけれど,次回につづきます。